心の貧しい人々の幸い

 昨年の世相を表す漢字に「偽」という漢字が選ばれました。食品、食材の嘘、 偽物、あちら、こちらで偽装が発覚しました。偽物、嘘が昨年の世相を代表する 漢字だというのも実に悲しい選択だったと思います。

 それにしても何故、これほどまで老舗や銘菓が偽装に手を染めたのでしょうか。 それはおそらく、彼らがもとめていたもの、会社がもとめていたものが、どこか 間違っていたからなのではないでしょうか。

 会社だけではありません。それを批判している私たちも含めた今の時代・社会 が、間違ったもの、偽物を求めているのかもしれません。

 私たちが当たり前のように求めている幸せの実体が、実は本当の幸せにはつな がらないもの、偽物であったとしたら・・。幸せをつかもうとして、必死にもが いてはいるけれど、実は偽物の幸せをつかもうとしているとしたなら、私たちは いち早くその偽装に気づかなければなりません。

 イエス様は、山の中腹で腰を落ち着けて、真の幸福を問うために、特別にお話 をなさいました。

 イエス様の口から出された最初の言葉、「幸いなるか」という言葉でした。お お、私たちにどのような幸いが与えられるのだろうか?期待は高まりました。

マタイ5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのもの である。」

それは意表をつく言葉でした。

 心の貧しさとは、いい加減な貧しさではありません。それは徹底した貧しさを 表しています。自分の内側には、より頼むものが何1つ無い状態。誇るべきもの など何も無い状態。

 このような人が幸いです、とイエス様は言われるのです。ようするに逆さにし ても何も出ない状態、空っぽの状態が幸いなのです、とイエス様はおっしゃるの です。

 エレン・G・ホワイトはこの心の貧しさについて、特に内面の問題として、次 のように、語っています。

「高慢な心は、自分の行為によって救いを得ようと努力する。しかし天国にはい る権利書と資格はキリストの義のうちにある。自分自身の弱さを自覚し、すべて のうぬぼれを取り去って、自分自身を神の支配にまかせるまでは、主は、その人 の回復のために何もすることがおできにならない。

 自分自身を神にまかせるときに、彼は、神が与えようと待っておられる賜物を 受けることができる。必要を感じている魂にはどんなものも与えられないものは ない」(『各時代の希望』中4)。

 私たちは、自分の行為によって救いを得ようとすることをやめて、空手で、神 様のご支配に任せる必要があります。そのためには自分の義をとりのぞかなけれ ばなりません。

 同じくエレン・G・ホワイトは別の書で次のように語ります。

「罪を認めさせる神の霊によって心を打たれた者たちは自分の中に何もよいもの がないことを悟る。彼らは、今までしてきたことはすべて、自我と罪がまざって いることを知る。

 かれらはあわれな取税人のように遠くはなれて立ち、目を天にむけようともし ないで、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と叫ぶ。その時彼らは祝福 されるのである」(『祝福の山』9)。

 私たちはここで、幸せのあり方について、重要な転換をむかえなければなりま せん。

 私たちが富むことが幸せの本質なのではありません。神様の富が私たちに注が れていることが私たちの幸せなのです。

 私たちが救いに価するわけではありません。そのような私たちのためにイエス 様が十字架の死をもって、お救い下さったことが私たちの幸せなのです。

 私たちが清められてゆくことは大切なことです。しかし、それが幸せの本質で はありません。イエス様が清いお方であることが、私の幸せの本質なのです。

 私たちがイエス様の愛を受けて、愛の人になることは大切なことです。しかし、 イエス様がまことの愛の方であって、その大いなる愛を今も私たちに注いでくだ さっていること。それが私たちの幸いの本質なのです。

 天国に招かれていることは私たちの幸せです。しかし、それよりも、そのため にイエス様と神様と聖霊の神様が私たちのために、その道を備えてくださってい ることが幸せの本質なのです。

 それは、自分の富、自分の義、自分の努力、自分、自分という引力からひとた び解放され、神様の偉大さと、憐れみとに、目を注がせていただくこと。神様の 富と大きさに圧倒されてゆくことなのではないかと思います。
(by 藤田 昌孝)