悲しむ人々の幸い1
世の幸いは、この重箱に似ています。1つ1つの幸いを積み重ねてゆきます。
あれもできた、これも手に入れた。こんな嬉しいことが起きた。と、幸いと思わ
れる事柄をどんどんと積み重ねては、大きな幸せを作ろうとします。
しかし、下の方には、いろいろな問題もある。未解決のもの、間違いもありま
す。それでも、とにかく、幸せと思われるものを、上へ上へと積み重ねてゆけば、
なんとかなるだろう。はたして、下が腐っていますと、やがてそれらの幸せは崩
れてしまうかもしれません。
一方、聖書の幸いは、重箱的な幸せではありません。上に積み上げるのではな
くて、一番下から新しくしましょう、という幸せです。幸いの基礎を固めます。
幸せの基礎が固まれば、上にはそれほど積み上げる必要はないのかもしれません。
マタイ5:4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
「幸いなるか」とイエス様は語られます。幸いなのは、健康な人か、賢い人か、
権威ある人か?やはりお金持ちか?聴衆は期待します。幸いなるかな、後に続く
イエス様の言葉は、「悲しむ人々」でした。「えー!悲しむ人々が幸い?」
「悲しむ」「ペンセオウ」という言葉、ギリシャ語の中で最も激しい悲しみをあ
らわす言葉です。これは、最も愛する人を失ったときの悼み、嘆きを表す悲しみ
です。
では、なぜ、この「悲しむ人々」が幸いなのでしょうか?今日はその理由で考
えられることの中の一つをご紹介させていただきます。
悲しみによって、私たちは多くのことを得、整えられてゆくといことです。
こんな詩があります。
喜びを抱いて1マイルを行った時、私の歩みは喜びの語りかけで満ちていた。
しかしあとにはむなしさだけが残された。喜びは語り続け、私の道のりを費やし
たから。
悲しみを抱いて1マイルを行った時、私の歩みは沈黙したままだった。しかし
私は価値あるものを得た。悲しみが私と共にあったとき。
喜びは私の人生を消費はしたけれど、何も残さなかった。ということでしょう
か。しかし、悲しみはときに、その沈黙の中で、私たちにとても大切なものを残
します。
涙の雨がふらなければ育たない作物があります。悲しみ通らなければ、見つけ
ることのできない虹があります。悲しみの中でしか知ることのできなかった人の
優しさとその力。神様の憐れみと慰め、その偉大な御業。悲しみの中で、私たち
は深く、そして新しい出会いを経験するのです。
悲しみの中で、私たちは、主にあって整えられてゆきます。「悲しみは、私た
ちの品性から粗野なものを取り除く、神の職人である」とさえ、言われています。
私たちはときに、悲しみの中で、切り出され、削られ、刻まれ、磨かれます。そ
れは苦しい工程です。
しかし、そのようにして私たちは主にあって整えられてゆきます。このように
して私たちは、悲しみの中で、大切なものを見つけ、出会い。神様の前に整えら
れてゆくのです。
(by 藤田 昌孝)