義に飢え渇く人々の幸い

義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。(マタイ5:6)

 ここで、用いられています、飢えるという言葉は、ちょっとやそっとの飢えで はありません。当時のパレスチナの多くの労働者は、その日一日の賃金では、十 分にその日の食費をまかなうことができませんでした。

 つまり、彼らは常に、深刻な飢え、最悪、飢えで亡くなるという危険と背中合 わせの生活をしていたのです。

 渇きについても、それはさらに致命的でした。乾燥地帯において、水不足は深 刻です。旅にでようものなら、途中、砂嵐に出会うことがあります。旅人は外套 で頭を覆います。

 風に背をむけて通りすぎるのを待つしかありません。しかしその間、細かい砂 が鼻や喉につまります。息ができなくなって、激しい渇きに襲われるのです。

 つまり、ここで使われています「飢え渇き」とは、飢えで死につつある者が食 べ物を求めている姿。乾きとは水を飲まなければ死んでしまう状態を言っている のです。

 これは私たちにとって大きな挑戦です。私たちは、それほどまで強烈に、神様 から義を求めているでしょうか?私たちは、餓死しつつある者が食べ物を求める ように、渇いて死にかけている人が水を求めるように、義を求めているのでしょ うか?

 本当にこのような飢えや渇きをもっている人たちは、目の前にたくさんのお金 を積み上げられてもパン一つのほうを選びます。飢え渇きは、他の何よりもまし て、そのことを強く望むのです。

 義に飢え渇くとは、なんとしても、イエス様に似た者となりたいと心から願う ことをいいます。

 義に飢え渇くとは、神様が正しいとされること、神様が良いとされること、神 様が願っておられること、私たちがその生活の歩みの中で行ってゆきたい、と心 から願うことをいいます。

 そのような願いが心の中で大きな情熱となって燃え続けることです。そのため なら、私は何でもしたい、そのことが最優先で求め続けられてゆくことです。

   聖書の中で、義を追い求めている人々には、1つの特徴があります。それは、 彼らが義を求めているのは、自分のためではない、ということです。それは他者 のためでした。

 モーセは、イスラエルのために、「今もし(神様)あなたが、彼らの罪をお赦 しくださるのであれば・・・、もし、それがかなわなければ、どうかこのわたし をあなたが書き記された書の中から消し去ってください」と祈りました。

 パウロは、同胞のために、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のた めならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っ ています」。ローマの信徒への手紙の中で書いています。

 イエス様の弟子たちは、何故、二階座敷で祈り続け、聖霊を待ち望んでいたの でしょう?イエス様から与えられたその使命を果たすためです。地の果てに至る まで、キリストを証するためです。

 モーセも、パウロも、キリストの弟子たちも、彼らの関心は、イスラエルの救 い、同胞の救い、世の救い、人類一人一人の救いでした。そのような意味で、彼 らはまさにキリストの共労者でした。

 人類の救いを自分の命よりも願われたイエス様の思いと1つになっていたので す。ですから、彼らには、力が与えられ、聖霊が与えられました。神の義が与え られ続けていたのです。

 私が世の人々にイエス様をお証するためには、私の力、人間的な力はあまりに も無力です。人間の力で、イエス様をご紹介することはできません。私の力でイ エス様をご紹介することはできません。

 霊で始められたことは、霊で仕上げなければなりません。そのために、霊的な 不足を感じるのです。イエス様のお力によって、聖霊のお力によって、私たちは もっと、もっとキリストと似たものとならなければなりません。そこで、私は、 2階座敷の弟子たちのように聖霊を熱心に祈り求めることができるのです。

「もしあなたが自分の魂の必要を感じるなら、もしあなたが義に飢えかわいてい るなら、それこそキリストがずっとあなたの心に働いておられる証拠である。

 それは主が聖霊の賜物を通して、あなたが自分ではすることができないことを あなたのためにしてくださるよう、あなたが主を求めるようになるためである」 (『祝福の山』23、24)。
(by 藤田 昌孝)