心の清い人々の幸い

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(マタイ5:8)

 イエス様は内側の清さ、心の清らかさを強調されました。そして、内側の清ら かさ、心の清らかさは、外側をも変えずにはおかないのです。

   ところで、ここで言われている「清らかさ」とはどのような意味でしょうか。 ギリシャ語で、カサロス、その意味は、混ざりもののない、混合物のない状態を 言います。

 それは、「心の定まらない者たち、心を清めなさい」(ヤコブ4:8)。「心 を定める」ということです。

 また詩篇24篇4節には、「清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われること なく」とあります。心が清いということは、むなしいものに魂を奪われないという ことです。神様のお心や思いに、心が一つに定まっている状態です。

 人に良く見られたい、とか、自己満足したい、とか、そのようなむなしいこと に心を向けないこと。神様と心を1つして、心を定めて、心をこめて生きてゆくと いうことなのでしょうか。

 ホワイト夫人は、『祝福の山』の中で、この心の清い、ということについては、 次のように説明しておられます。

「心のかくれた目的や動機において真実であり、誇りや利己主義から解放され、 謙そんで無我で、幼な子のようなものであることを意味する」(『祝福の山』3 0、31)。

 聖書は、人間の心について、二つの見解を示しています。

 1つは絶望的見解です。私たちの心はアダムとエバが罪を犯したとき、善悪を 知る木の実を食べたとき、永遠の命に死んでしまいました。死んだ心をもって何 をしても、結果は絶望的です。

 旧約聖書の預言者イザヤは、私たちがどんなに良いことをしたとしても、死ん だ心でそれをするならば、「われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のよ うである」(イザヤ64:6口語)といいます。

 パウロはローマ人の手紙3章で、「義人はいない、ひとりもいない」。といい ます。

 心についてのもう1つの見解、それは、希望に満ち溢れた見解です。人間は永 遠の命に死んでしまいましたが、もう一度、永遠の命、神様の心が与えられると いう、良き知らせです。

 パウロは語ります。テトスへの手紙3章5節から8節

「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して 実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖 霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。

 こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の 命を受け継ぐ者とされたのです。この言葉は真実です。あなたがこれらのことを 力強く主張するように、わたしは望みます」。

 永遠の命に死んだ、絶望的な私たちに心に、聖霊のお働きを通して、神様は再 び、永遠の命を私たちに与えてくださり、私たちの心を新しく造りかえてくださ るというのです。

『各時代の希望』上202頁にはこの聖霊のお働きについて、次のように書かれ ています。

「クリスチャンの生活は古いものを修正したり改良したりすることではなくて、 性質が生れ変ることである。自我と罪に対する死があり、まったく新しいいのち がある。この変化は聖霊の効果的な働きによってのみ行われる」。

 少しずつでも、私たちが聖霊の神様のお働きによって、変えられてゆくとき、 私たちには、1つの大きな喜び、幸い、を得ることができます。それが「心の清 い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」。 「神様を見る」幸いです。

 人は似たもの同士、理解し合えるのです。人は自分の持っているものでしか、 相手を理解できません。「あの人はいい人だ」と思うのは、そのいいところを、 あなたも持っているからです。

「あの人はどうも、うさんくさい」と思うのは、その人のうさんくささを自分も 持っているからです。悪いところをたくさん持っている人は、人の悪いところば かりに目がつきます。いいところをたくさん持っている人は、人のいいところば かりを見つけます。

 心が清められて、神様の心をいただけば、いただくほど、神様の素晴らしさに 気がつくようになります。ここにも、そこにも、神様の豊かさ、素晴らしさが突 然増えだしたように感じるのです。

 私たちの日々の生活に、神様のご計画の美しさ、慈しみ、憐れみ、巧みを知る ことができます。聖書を通して、イエス様のご生涯に表されている神様のご品性 をその美しさを発見します。

 時々刻々、神様と過ごすその関係の中に、大きな喜びを覚えることができます。 自然界の中に、神様の英知と御愛を伺うことができます。神様のご栄光が目につ くようになるのです。
(by 藤田 昌孝)