出来る人、出来た人
渡辺和子さん(ノートルダム清心学園理事長)が『わすれかけていた大切なこ
と』(PHP文庫)の中で次のようなことを書かれています。
出来る人、出来た人
「幼い時から母に、『負けるが勝ち』という諺を聞かされて育ちました。それは
私が運動会とか、学校の成績などで誰かに負けた時、私を慰める時に使われた言
葉ではなく、むしろ、腹を立てたり、口惜しがって、相手に仕返しをしようとす
る私に対して、それを思いとどまらせるために言われたことでした。
自分の長い人生経験に裏付けされたものだっただけに、母の言葉が、この短い
諺を、説得力のあるものにしていました。
18歳で洗礼を受け、キリストを知るようになって、私はキリストの中に、人
の目には惨めな敗北にしか映らなかった十字架上の死を通して、復活の栄光、勝
利に輝いた人の姿を見ることが出来るようになりました。
キリストほど、華々しく負けて、しかるのち勝った人はいないのではないでしょ
うか。日本語でいう“出来る人”と、“出来た人”では、たった一文字の違いで
すが、内容はかなり異なります。
いつもいつも勝っていて負けを知らない人を、私たちは“出来る人だ”と評価
します。それに対して私たちが“あの人は出来た人だ”と言う時、それは人間的
に円熟した人、包容力のある人、負けることの大切さを知り、時に応じて、進ん
で相手に勝ちを譲ることの出来る人をいうのです。
キリストこそは、負けて勝つことを知り、私たちへのお手本となった、真の“出
来た人”だったのです」。
以前、「勝ち組」「負け組」などという言葉が流行りました。何が勝ちで、何
が負けなのかもはっきりしないまま、なんとなく、この世の財産や地位、名誉、
学歴、既婚、未婚などを基準にしながら使われていました。
さすがに最近はあまり耳にしなくなりましたが、それでも、世の中では、いわ
ゆる「勝利至上主義」なるものが支配しているように思われます。ビジネスや受
験勉強が「戦争」にたとえられ、勝ち残りをかけて、その戦いが繰り広げられて
います。
そのような中で、ただ勝つことばかりが求められ、この世の成功ばかりが容認
されてゆくならば、私たちの人生はその目的を見失うかもしれません。勝つこと
自体は悪いことではありません。
ただ、その勝利の目的が問われなければなりません。何のために私たちは戦い、
何のために勝たなければならないのか?聖書の中にも「勝利」がうたわれていま
す。「神様の勝利」「イエス・キリストの勝利」「罪に対する勝利」などです。
ただし、これらの勝利にはいつも「神の国」の実現がその結果にともないます。
「神様の正義」「神様の愛」「神様の憐れみ」「人類の救い」がその勝利の目的
だからです。
私たちの人生の目的が、神様のお力によって整えられてゆくならば、その目的
は、「神の国」の実現に参与するものへと変えられてゆきます。その時、私たち
はもはや、ただ勝つことだけを求める生き方から解放されます。負けることの大
切さを知り、時に応じて、進んで相手に勝ちを譲ることさえできるようになりま
す。
「もしわれわれが、主の謙遜を身につけるなら、われわれは毎日受ける軽蔑や拒
絶や迷惑などに超越し、そうしたものが心に暗い影をなげることがなくなる。・
・・へりくだった心は、キリストに従う者たちに勝利を与える力であり、それは
彼らが天の宮とつながっている証拠である」(『各時代の希望』中6−7)。
イエス様から永遠の命を日々いただいて、「神の国」の実現に向けて歩ませて
いただきたいと思います。イエス様をお手本として“出来た人”を目指してゆき
たいと願います。
(by 藤田 昌孝)