恵みの愛
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者
が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。
神様は、私たちが永遠の命を得るために、その独り子をお与えになりました。
イエス様の十字架です。そこに神様の愛が表されました。この十字架の愛の特徴
を、聖書は一つの言葉で表しています。それは「恵み」です。
イギリスの宗教学者たちがある日、議論を重ねていました。キリスト教独自の
ものとは何なのか?他のどの宗教にも見つけることができないキリスト教独自の
もの。
議論が行きづまっていたとき、C・S・ルイス(ナルニア王国物語の作者・有
名な神学者)が現れて「何を議論しているのか?」。学者たちが議論のテーマを
伝えます。するとルイスは即座に答えました。「簡単だよ、『恵みだ』」。
「恵み」といっても、辞書で調べるとそれは「恩恵」と出てきます。「恩恵」
を調べると「恵み」と出てきます。よくわかりません。しかし、C・S・ルイス
がそこで語った「恵み」とは、聖書に表されている「恵みの原理」を言っていた
のだと思います。
「恵みの原理」とは、「受ける資格のないものが受けること」です。それとは対
照的なのが、「報酬の原理」です。それは「受ける資格のあるものが受け取るこ
と」です。
世の中の多くは、この「報酬の原理」で成り立っています。働きに応じて賃金
をいただく。お金を払ってそれ相応の物を買う。しかし、恵みの原理は違います。
「受ける資格のないものが受けること」なのです。
この恵みの原理を新約聖書のパウロという人物が次のように表しました。
「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでく
ださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:
8)。
「私たちが敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた
のであれば」とあります。
敵とは本来、愛される対象にはなりません。愛される資格を持たないのです。
ところが、この聖句は違います。私たちが神様の敵であったとき、まだ罪人であっ
たときイエス様はわたしたちのために死んでくださった。そのようにして神様は
わたしたちを愛されました。
「受ける資格のないものが受けること」これが恵みの原理です。
次のお話は私が創った逸話です。
二人の友人がいました。1人の友人は、ろくでなし。彼に近づくと、必ず嫌味
を言われ、傷つけられます。刃物のような人でした。人は、けっして彼に近づこ
うとはしません。
もう1人の友人は、心優しき人です。なんと、刃物のようなろくでなしに親切
にします。しかし、そのつど、傷つけられ、痛めつけられます。回りの人々は、
「よしなさい」と忠告するのですが、心優しき友人は、傷つきながらも、彼を愛
そうとします。
とうとう、心優しき友人は、深く傷を負い、入院してしまいます。こともあろ
うに、あのろくでなしは、病気の友に向って、「ざまをみろ、いい気味だ」と、
罵倒するのです。
ところがある日、このひどい友人はギャンブルとサラ金で億単位の借金を抱え
てしまいました。すると、心優しき友人が、病室から手配をして、自分の父親の
山を売り、多額の小切手を彼に渡したのです。「これで借金をお返しなさい」。
ろくでなしは、「よけいなことをしやがって、でも、もらってやるか」。
ところが小切手をろくでなしは、ふたたびギャンブルで失ってしまうのです。
心優しい友人は、心労と、失意のため、病床で1人寂しく、息を引き取りました。
この心優しい友人は実はイエス様のことです。そしてあのろくでなしは、私で
あり、あなたであったかもしれません。
ただ、ろくでなしと私たちの大きな違いは、私たちは、いただいた小切手をド
ブに捨てるようなことはしなかったということです。それをもって借金を返した
ということなのです。イエス様の十字架を信じて、受ける資格の無い者が永遠の
命をいただいたということなのです。
神様の愛は、十字架の愛。それは受ける資格の無いものが受ける「恵みの愛」
です。
(by 藤田 昌孝)