「わざわいなるかな、わたしは」
「ウジヤ王の死んだ年、私は主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが
神殿に満ちているのを見た。、、、、、その時わたしは言った、「わざわいな
るかな、私は滅びるばかりだ」。
(イザヤ6の1、5)
これはイザヤの個人的な証です。彼は一つの幻を見ました。その中で、イザヤ
は高くあげられた偉大な神を見ました。それだけでなく、この神が絶対的に聖な
るお方であることを見たのです。このような神の栄光を見、そのご臨在に触れた
とき、イザヤは自分の罪深さを自覚しました。「わざわいなるかな、わたしは滅
びるばかりだ」と彼は叫びました。イザヤは5章で、「わざわいなるかな、彼ら
は、、、、、」(8、11、18、20、21、22節)とユダの罪悪を責めて
います。ところが、今や彼は突然、恐るべき清き神の光に照らされて、自分の罪
深い心の奥を見せられたのです。そして「わざわいなるかな、わたしは」と叫ん
だのです。その時、彼はゆるされました。そして、「わたしはだれをつかわそう
か」(8節)との主のみ声を聞きました。
主に豊かに用いていただく前に、だれもが、イザヤと似た経験をするのではな
いでしょうか。私自身、今までの信仰生活を振り返るとき、どれだけ、「わざわ
いなるかな、彼らは」と裁いてきたことでしょう。どれだけ主を悲しませ、隣人
を傷つけてきたことでしょう。1993年9月18日(土)のことを忘れること
ができません。その日の朝、ローマ3の12が私の心をとらえました。「すべて
の人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。」私は、自分の牧会が、
神の栄光のためには無益であった、いやむしろ有害であったことに気付かさせら
れました。死んだ方がましだ、と思いました。しかし神の深い愛とあわれみに支
えられ、「主よ、私の罪を許して下さい」と祈り、再献身に導いていただいたの
です。
(by 明智信作)