[読者からの御質問]
最近拝読するようになった神を信じる者です。
人生幸せに生きたい!は万人の願いと思います。しかし、日々しがらみの中で苦
しんでいるのが現実のように思います。主のお導きなさる幸せへの過程としてこ
の苦しみが必要であるとはよく言われる事です。
なぜ苦しみを通らなければ主の導く幸せを頂けないのか疑問です。
神様は人間を愛され愛する為にお造りになられたのでしたら、試練を通らなくて
も直接あなたの幸せを頂きたい。人間は罪人でアダムとエワが裏切ったから最初
から楽園に入れないのですか。キリストがこの罪をになって下さったのではない
のですか。キリストの十字架は罪人になった人間が再び楽園へ入れるようになっ
た為であり、人が苦しみを通らなければ幸せを味わえない事にはかわりがない状
態なのでしょうか。
人が生きるのに苦しみが多いなあと思います。
[牧師からの御返事]
クリスチャン・ライフを読んで下さり、有り難う御座います。あなたの仰るとお
り、人が生きるには苦しみが多いですね。誰もが幸せに生きたいと願っておられ
る、ということも全く同感です。そして、なぜ苦しみを通らなければ主の導く幸
せをいただけないのか、と疑問に思われるのも無理のない事です。苦しまずに、
主を信じる者になれたら、それに越したことはありませんですね。聖書は、人生
の苦しみは、人間の罪の結果、生じるようになったと示唆しています。ところが、
人間は自分の罪深さがなかなか解らないのです。自己中心、自己信頼、神に頼ら
ず自分の力に頼り、自分を崇めようとする罪人の本質が、様々な困難や苦しみを
生み出しているのですが、それに気付くのは、大抵苦しみを通してなのが、現実
です。すべてが順調で、自分の思い通りにいっている人は、神を認めず、感謝も
せず、自分が正しいと思っていますから、罪がわからず、従って、救いの必要も
感じない、ですからキリストを求めることもなく、信じることもないのです。聖
書の救いは、罪からの救いですから、罪を認めず、救いの必要を感じない人は、
救いから遠いのです。キリストはその人のためにも死んで下さったのですが、そ
の人はそれを聞こうともしないのです。しかし、苦しんでいる人は、自分の力の
限界に気付き、また自分の力を越えた神に対して心を開くようになる場合が多い
のです。
「悩みの日に、わたしを呼べ。わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめ
るであろう」(詩篇50:15)
とあります。私たちが悩みの中にあるとき、神は特別に自分に助けを求めるよう
に招いておられるのです。「苦しいときの神だのみ」と言われますが、これが人
間の現実ではないでしょうか。神はそれをよくご存じなので、苦しみが臨むこと
を許され、それを通して、神を求めるようになることを望んでおられるのです。
苦しみそれ自体は決して神が与えるのではありません。それは多くの場合、自分
のまいた種であったり、あるいは、ヨブのように、サタンから直接来るものもあ
ります。神はそれを支配して、その苦しみが、人間の祝福となるように、導いて
下さるのです。早く自分の限界を悟り、神の愛を信頼し、素直に神のみ言葉に喜
んで従う者となりたいものです。苦しみは、神から直接には来ないけれど、私た
ちの益となるように、その経験を支配し、導いて下さる、ということを覚えてい
ただければ、と思います。神の祝福と導きがあなたの上に、豊かにありますよう
にお祈りいたします。
明智信作